日本のジュエリー:平安時代〜江戸時代
最終更新: 2026-07-20

縄文時代には、際立って発達した耳飾りの文化がありました。ところが日本ではその後、少し意外な出来事が起こります。体を飾るための装身具が、ほとんど姿を消してしまうのです。平安時代から室町時代までのおよそ千年のあいだ、貴族や、のちに世を治めた武家は、地位や洗練を装身具ではなく、衣服や和歌、儀礼によって表してきました。そして江戸時代に入ると、職人たちは持ち前の技を生かし、制約の中で新しい道を見つけていきます。
装身具が姿を消した平安時代(794〜1185年)
平安時代は、日本の宮廷文化が頂点に達した時代とされています。貴族たちは、絹の衣を何枚も重ねる装いに心を尽くしました。袖口ごとに並ぶ色の組み合わせが、季節や身分を伝えていたのです。香を調合し、自然の移ろいに合わせて和歌を詠むことにも、多くの時間をかけました。その一方で、耳に穴を開けたり、体に装身具を着けたりすることは、ほとんどありませんでした。

なぜこの変化が起きたのか、その理由ははっきりとは分かっていません。記録は残っていても、そこに説明はないのです。平安時代の初めには、耳飾りはすでに貴族の装いから姿を消していました。この背景として、中国・唐の宮廷様式の影響を挙げる歴史家もいます。唐でも、装身具ではなく衣服で身分を示す方向へと変わっていたからです。仏教の広まりと、控えめであることを尊ぶ美意識を理由に挙げる見方もあります。もっと素朴な理由も考えられます。豪奢な衣の色や重なりで身分を示す文化では、小さな耳飾りはほとんど目立たず、そもそも出番がなかったのでしょう。
鎌倉・室町時代と武家の美意識(1185〜1573年)
鎌倉幕府と室町幕府の時代になると、宮廷に代わって武家が世を治めるようになります。重んじられたのは、質素さや武の規律、そして禅の影響を受けた美意識でした。装身具はむしろ以前より控えめになっていきます。その代わり、職人の腕は、鍔(つば)や目貫(めぬき)、縁(ふち)といった刀装具に注がれました。この時代にもっとも技が注がれたのは、体を飾る装身具ではなく、武具を飾る金具だったのです。

実用品に隠れた江戸の装飾(1603〜1868年)
江戸時代は、それまでの控えめな日本という見方だけでは語りきれません。浮世絵や歌舞伎、町人が生み出した流行の文化など、華やかな一面をいくつも持っていたからです。ただ、徳川幕府が派手な装いを公に禁じたため、実用を名目に、さまざまな工夫が加えられていきました。

その代表が、簪(かんざし)です。凝った簪の先には、小さな耳かきが仕込まれていました。表向きは身だしなみの道具だから許される、というわけです。ところが中身はというと、漆塗りの木や、彫りを施した象牙、鼈甲(べっこう)、金鍍金の金属など、驚くほど手の込んだ装飾の見せ場になっていました。この建前は使う人なら誰でも承知のうえで、それがかえって粋な楽しみだったのかもしれません。簪を、身分を示す装いにまで押し上げたのは、芸者や花魁でした。簪の種類や数、季節との合わせ方は、分かる人が見れば、芸者や遊女の格をそのまま物語っていたのです。

男性の世界でも、同じような工夫が見られます。根付(ねつけ)や、印籠と呼ばれる段重ねの薬入れです。どちらも装身具と呼べるものではありませんが、この時代でも指折りの、手の込んだ細やかな彫りが施されていました。


この時代が教えてくれること
平安から江戸へと続くこの流れが教えてくれるのは、体を飾りたいという思いは、社会の制約があっても消えないということです。ただ、姿を変えて表れるだけなのです。縄文の人々は耳たぶを少しずつ拡張し、江戸の職人は実用品の中に飾りを忍ばせました。根底にある思いは同じで、その表れ方だけが、時代や状況に合わせて変わっていくのです。
MAYのこだわり
ものづくりには、いつも制限がついて回ります。使える素材、守るべき規格、そして体のつくり。ジュエリーの作り手やピアッサーは、それを日々実感しています。仕上がりの差は、その制限をどう受け止めるかで決まります。厄介な壁と見るのか、良いものを生むための条件と考えるのか。その姿勢が、そのまま品物に表れます。MAYが選ぶメーカーは、インプラントグレードの基準(ASTM F136、ASTM F138)や仕上げの要件を、窮屈な決まりごとではなく、品質を支える土台としてとらえています。江戸の職人が簪に技を注いだのと、同じ心持ちです。
次回は明治維新をピックアップ。日本が西洋に扉を開き、眠っていたジュエリー産業が動き出した瞬間を取り上げます。養殖真珠の誕生や、現代の日本のボディピアスの姿にも触れていきます。



